ポルシェ

金属細工職人の次男坊が、兄が死んだことをキッカケに家業を継ぐこととなります。

それでも好奇心は電気に傾き、反対する遅々を説き伏せ、夜間の工業高校夜間部に入学。

家を継がせるつもりでいた父親は、次男の才能の前にそれを諦め、自分の道を歩むことを認めました。

その次男坊がフェルディナンド・ポルシェです。

大学の聴講生として学びながら電気機器会社に務めるポルシェを、電気自動車に着することを決めていたヤーコブローナー社は招き入れます。

そこで現在のハイブリッドカーにも用いられているインホイールモーターの基となる技術が織り込まれた電気自動車「ローナーポルシェ」を1900年、パリ万博に出展しました。

しかし自分のしたい研究が進まない事は、ローナーの会社規模に問題があると考えたポルシェは、アウストロダイムラーに主任設計士として移籍します。

そこで一からスポーツカーを設計することになり、フェルナンド・ポルシェの設計士としてのあゆみが本格的に始まりました。

その後シュタリアへの移籍をへて、シュトゥットガルトに設計とコンサルティングを行うポルシェ事務所を開業しました。

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その後

この3年後にドイツの人々誰もが購入できる価格の乗用車を作るという計画が、労働者が余暇を有意義に過ごすことを提唱するヒトラーに認められ、フォルクスワーゲンタイプ1の原型が出来上がりました。

その頃には類まれなる才能を開花し始めていた息子のフェリー・ポルシェも、スタッフとして加わっていました。

戦争中はヒトラーから寵愛を受け、軍用車両やティーガー戦車といった先頭車両の設計に携わります。

しかしこれが戦後災いし、戦犯として刑務所に収監されることとなってしまいました。

ヒトラーの政治的な方向性には批判的であったものの、技術者として潤沢に予算を与えられノビノビと仕事が出来たことには喜びを感じていただろうと、容易に想像できます。

それでも戦犯と言われてしまうのは、仕方が無いことですが気の毒な気もします。

収監中もルノーから助言を求められたりと、欧州車の発展には欠かせない人物でした。

このフェルディナンド・ポルシェは釈放後健康状態が戻ること無く、3年後には亡くなってしまいます。

フォルクスワーゲンのの成功と、ポルシェ356の成功は届けていたようです。

その後1962年にはフェリーの手によるポルシェ911の生産が始まりました。

ポルシェはその仕事の10%以上、他社の仕事を請け負っているという大変面白い会社です。

もともとが設計外車であったということの影響が大きいのかもしれません。